さすがにロドストの日記には書かない内容だから久しぶりの日記
Twitterでこの2つのツイートが連続して流れてきたときの何とも言えない違和感について、その正体はいったいなんだろうと考えたことをメモ、ついでにここ数ヵ月のAI絵まわりの反応もいっしょに考えてみる、まぁ考えといってもAを見てA´を考えて、Bを見てB´を考えてを積み重ねただけだから「考え」なのかと言われると微妙なところはあるよね、ただの連想ゲームでしかないしお題に影響されやすいところはある
<流れてきたツイート>
・「絵を描ける」という特権がある、AI絵によって「絵を生み出す人」が拡大する
・紙と鉛筆があれば誰でも今すぐにできる「絵を描ける」ということへコンプレックスを持っている人が居るとは想像もしていなかった
1つ目の流れを受けた2つ目のツイートへの違和感はなんだろうと考えてみると
1.誰に向けて書いているのかが明確になっていない
文脈から想像できる読み手は「i2iで加工したトレパク状態のAI絵を作っている人」
内容をそのまま読んで想像できる読み手は「いま絵を描いていないすべての人」
このツイートの内容が穏便なものであれば特に気にすることではないけど、「言い訳ばかり並べて描きはじめないのが悪い、努力さえ続ければ才能なんて要らない」と読める内容で、たしかに正論ではあるんだけど広範囲に投げかけるにはあまりにも火力が高すぎる表現で反発が起こるのは当然だし、その反発のせいで言いたかったことがかき消されて別の議論が始まってしまうのは目に見えているのになんで?という違和感
2.「コンプレックスを持っている人が居るとは想像もしていなかった」は噓でしょ?
さすがに話を盛りすぎじゃないのって意味でも「噓でしょ?」
雑な言い回しでムダに敵を増やして議論のノイズを増やすのも「噓でしょ?」
つまり、創作できる表現者なんだからもっと上手く表現できるだろうという違和感
3.「人は何かを作りたいという欲求がある」という前提
「いま絵を描いていないすべての人」と読み取った場合、何かを作りたいという欲求の無い人、つまり無産者を考慮されていないという違和感
もちろん個人個人バラバラで無産者とひとくくりにできないのは前提として、頭の中に創りたいものが存在しない人(ほんの少しあっても欲求といえるほどには強くない人)は絵を書いたり他の表現方法への動機も理由もモチベーションも存在しないわけで、そこに紙と鉛筆を渡されても困るし、言い訳を並べずに描きはじめろと言われても困る
なら想定されている読み手には含まれていないとは予想できるけど、それならなんでこんな雑な言い回しをするの?という1.の違和感に戻る
この違和感から掘り下げていったときに見えてくるのは
・無産者の私よりも、何か創作できる人のほうが階級・能力・地位は高い
・階級・能力・地位が高いんだから雑な言動をするはずがない
これが私が、(主語を大きくするのは嫌いだけど)無産者が抱えている『コンプレックス』と言えるのではないかと、絵を描くという行為そのものではなくて「創作できる人への期待」、「無産者は創作できる人よりも劣っているはずなのになぜこんな雑なことをしたのかという驚き」、「こんな雑なことよりも無産者は劣っているのかという憤り」、これらが混ざりあったものをコンプレックスというならコンプレックスなんだと思うなどした
背景のメモをかねて脇道にそれると
この話題は「AIが絵を生み出す」ことへの理解と反発という大きな文脈から派生したもので、いわゆる「無産叩き」ととらえれば5年くらいの周期で見かけるよくある話題でもある
まぁ、まともな倫理観を持っていれば「無産」は言葉の響きが悪いインターネット感ありすぎるし、絵描きや文字書きにとって読者の大多数は無産のはずだから「踏み越えてはいけないライン」を意識して叩きづらいしで議論が立ち消えるのがいつものパターン、今回もすぐに沈静化してしまったのはちょっと残念でもあったりもする
とは言っても無産者に属している身としてはこの話題は興味があって、創作している人と無産者の考えかたの違いはどこで生まれたんだろう?とか、この時代の創作している人から無産者はどう見られているんだろう?とか、言葉に表すと「知りたい」という欲求が強いのかもしれない
何かを作るよりも何かを知ることを重視している、この比重のかけかたの違いが創作する人と無産者の分かれ目になるんだろうけど、その由来はいったいどこなのか、やっぱり興味がある
その他、AI絵まわりに感じていた違和感の言語化
このへんの話題は「AI絵を触っている人は絵を描きたい人」っていう前提から抜け出せていないツイートを多く観測しているのにも不満があって、AI絵を「適当に指示を投げれば結果が出る」という使い方をしていることへの視点を持てていない気がする (持てているとしたら主語がデカいという雑さがダメ)
つまり、ボタンを押せば適当な結果が出てくる診断メーカーであったり、開けば無限に情報が流れてくるTwitterやテレビといったものと同じ使い方をしている層も存在するわけで(=私)、「AI絵を使っているのは絵が描けないコンプレックス」という前提に固執した叩きかたは浅いし、そこから「AI絵」というジャンル全体を主語にして無条件に叩いてもいい存在としているのは感情論に支配された悪いインターネットの伝統芸だから不安しかない
「ヲタク」とか「男・女」とか「高齢者」とか属性そのものを無条件に叩きはじめる時点で取り返しがつかないほどに先鋭化してしまって賛同者が減ってしまわないか、そう発言してしまう自分自身の精神状態は問題ないのかと顧みたほうがいい気がする
もちろん「i2iで模造」のようなダメでしょって事例はあるけど、それってAI絵だからなのかといえば前からあった無断転載とか無断加工のやり方の一例ってだけだから個別に「この使い方は悪い」と攻めれば賛同を得られやすいし、雑な叩き方をしているよりはよっぽど建設的な話をできると思う
それに関連して危惧しているのが、「AI絵を描いた」へ「描いたとは言わない」という反応している点
例えば「ゲームでSSを撮る」はカメラで撮ることを指していないけど既存のカメラと似た機能だから同じ言葉を使っていて、実際にゲーム内のアイコンはカメラになっていたり効果音がシャッター音だったりする、他にも「チャンネルを回す」はダイアル式の操作じゃなくなっても生き残って使い続けている言葉なんかもある
であれば、「絵」に対して「描く」を対応させるのは言葉としては自然で、そこに「描いている」という意識があるかどうかはまったく関係なく「AI絵を描く」という言葉を使うのは自然と思うんだけど、その言葉だけを根拠に「それは描いているとは言わない」と指摘したり、「絵を描くことにコンプレックスを持っているせいだ」と安易に考えたりするのはあまりにも雑だし、文脈を読むつもりがない厄介者と思われてしまわないかと
もちろん考え方は人それぞれだから絵を描くことにコンプレックスを持っている人がAI絵を描いている事例も当然あるだろうけど、だからといってそれを全体に当てはめるのは雑だし危険という考え
そもそもAIの学習についても私が学習OKと思っているのはなんでだろうと振り返ってみると、これは絵そのものをコピペしているわけじゃないという前提もあるけど、攻略サイトに関わっていると「書いたものはすべてコミュニティに還元されて、それを誰かが活用したり誰かが改良してより良いモノになってコミュニティが発展する」という意識が強かったのが大きいのかなと思うなどした、技術的なものはたいていそうだし、絵に限らずビッグデータとかchatGPTなんかもそうだしね
まぁ、攻略サイトなんかは他人の作品の要素をただ並べただけで自分の作品ではないから絵とは比較できないと言われればその通りではある